憧れの人になっちゃだめだ
生まれてから一度も憧れた経験がないという人は果たしているだろうか。
かくいう私も今まで幾度となく様々な人に憧れ、尊敬し、彼らの見る世界はどのように写っているのだろうかと想像を巡らした。
中村俊輔、中田英寿、堀江貴文、藤田晋、坂本龍馬、いくらあげてもキリがない。。
今でもそうした思考に耽る癖は健在だ。
だが、一つ思うことがある。
尊敬する人や憧れる人になりたいと思うのはお門違いであると。
そもそも我々は憧れや尊敬の上に、
崇拝、信仰といった宗教性が個別に潜んでいることを注視せねばならない。
アイドルというのも完全にある種の宗教文化であろう。ファンは人の普通とは違う才能や美しさに恍惚とし、カリスマやスターに仕向け、物象化する。
そうなってはもう手遅れだ。
あくまでも尊敬するひとなどは憧れの範疇に止めておくべきである。
今一度考えてみてほしい。人生の主役は誰か。この物語の主人公は一体誰なのか。
間違っても他人の人生を生きないためにも憧れや尊敬は参考程度に収め、自身の成長、魅力、哲学に還元したいものである。
生き方について考え直す機会を与えてくれる参考図書を二冊ほど上げておく。
それではまた。。
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目標を立てる事とそれを達成するためのお話
多くの人々が一年の始まりに今年の抱負や目標を立てて、今年こそは頑張ろう!計画的に目標に向かって頑張ろう!と意気込んだはずである。
今回はそんな一年の始まりに立てた目標について今一度振り返る回としたい。
さて、まずは自分が一年の始まりに立てた目標を覚えているだろうか。話はそこからである。それは概して持続的に努力した結果、達成できるような目標であろう。
いま、その目標を達成するために継続的な努力を続けることはできていると、素直に言えるだろうか。半分以上の人の答えはおそらくNOであろう。
何故か。
理由はいくつかある。
まずその目標を立てた事に意識を向ける行為を怠っていることだ。
具体性の欠如が自らのベクトルを不安定にさせる。中にはこのブログの記事を見て、年初めに立てた目標を今になってようやく思い出すような愚か者もいるだろう。人はもともと原始時代から1日を生きることを意識して生きていたのであり、長期的な計画を立てて生きる事に長けている生き物ではない。農耕生活が始まってから初めて計画的に生活する事が自身への成功に繋がるようになったのであるが、それは遺伝子的に見ればつい最近の事なのだ。無論、農耕生活のように計画的に生活する事が成功に繋がることは今の時代も同じ事なのだが。
次に人は目の前の誘惑に弱い。
今まで何度誘惑に負けた自分を心の中で戒めたのか、後悔したのか、失望したのか、振り返ればわかるだろう。
所詮人間は動物であり、遺伝子の組み込まれた単なる個体でしかないのである。これは非常に重要なことだ。少し話が逸れるがこの事について少し説明をしよう。
人間は生殖行為によって自らの遺伝子を後世に残すことが人生の目的なのである。そして女性は潜在的により良い遺伝子を探りつつ生きるわけだ。イケメンでヤリチンのモテ男を無意識化のうちに求めている。何故か。将来的に自分の子供が非モテのブサイク童貞オタクになる事を望んではいないから。そんな劣等遺伝子では自らの遺伝子を後世に残すことができなくなるからだ。よく考えれば当然のことだろう。
まあ行って仕舞えば今存在している我々自体は遺伝子の箱舟を操縦している船長のようなもので、その船を次の港(後世)へ引き継ぐことがせいぜいの務めといったところだろう。所詮そんなものである。
後日これに付け加えてアイドルにのめり込む人についても少し話をしようと思うが、それはまた別の機会に。
さて、話を戻そう。
一年の目標を見つめ直す事についてが今回のテーマ。そして、何故一年の目標に対して継続的な努力を続ける事ができない理由を述べた。
1つ目は
・目標に対して意識を向ける事を怠ること。
2つ目は
・目の前の誘惑に弱いこと。
この2つ目の目の前の誘惑に弱い事に対して考察していく。そもそも何故人は目の前の誘惑に弱いのか。これは行動経済学の双曲割引という理論から導き出す事ができる。説明が長くなってしまうので詳しくは述べる事ができないが、要はダイエットをしているのに目の前のケーキの誘惑に負けて食べてしまう。
お金を貯めると計画したのにセールだったので目の前にある安い服をつい買ってしまう。などだ。
つまりは目標や計画を立てたにも関わらず人は目の前の誘惑に負けて欲望を優先してしまう生き物だという事である。
これを踏まえて生きる事によって少しは双曲割引の理論に自分が当てはまりそうになった際、そのルーティンに押し流されるリスクは減るだろう。
とにかく目の前の誘惑に負けていては長期的な計画などは上手くいくはずはなく、一切自分の目標を達成することなど不可能なのである。
今年も目標を達成できなかったと年末にぼやき、来年こそは!と猿のように遠吠えするのではなく今年の目標達成に全エネルギーを注ぎ、自己投資をし、来年はまた次の目標へとステップアップすることの方が余程良いはずだ。
そもそも自分が何のために目標を立てるのか、それは自分がより良くなりたいからであるはずだ。
無駄な自己嫌悪に陥らないためにも簡単な解決策を1つあげよう。
それは、、
毎日日記をつけることだ。
ここでいう日記とは基本的にどのようなものでも構わない。
が、ルールとして
・紙に書くこと
・毎日立てた目標と今日の行動を振り返ること
(結果のみを見る、即ち抽象的な部分は一切排除して甘えを取り入れない)
の2つは守って欲しい。
そしてできれば
・毎日朝にその日のやる事リストを作る
となお良いだろう。
無駄なエネルギーや思考、雑念を排除しただそのやる事リストに沿って自分にとって大事な事順にクリアしていけば良いのである。
この日記が自分の長期的な計画、ないしは目標を達成するには必要不可欠であるのだ。毎日目標を見つめ直す事によって自らのベクトルは正しい方向へと突き進み、最も適したルートで成功に近づくだろう。
これはあらゆることに対して応用可能だ。
これを機に改めて自身の状況を整理して目標達成に向けて日々精進していければと思う。
今回はこの辺にしておく。
では。
生まれて初めて舞台を見に行ったお話 それは観客と演者のレスリングだった _NODA MAP 「足跡姫」
僕は生まれて初めて舞台を見に行った。一万円というお金を払って。野田秀樹監修の「足跡姫」だ。主演は宮沢りえが務める。彼女は僕が舞台を見に行く前日、日本アカデミー賞で最優秀賞主演女優賞を獲得していた。そこに彼女の姿はなかったが。確か日テレだったと思う。それを僕は生放送で見ていた。司会が「先ほど宮沢りえさんは明日の舞台のために会場を後にしました。」と言った。
僕は嬉しかった。
授賞式よりも舞台を優先するという姿から彼女の演じることへの本気度がうかがえたこと。明日日本トップの賞を獲得した女優の演技を生で見ることができるということ。最優秀主演女優賞を獲得したばかりの宮沢りえのエネルギーを誰よりも早く感じることができること。
とにかく嬉しかったんだ。
次の日、僕は劇場のある池袋駅に電車で向かっていた。
電車内で流れる広告を見るとその日舞台に出演する妻夫木聡が写っている。
ああ、これから自分はこの人を生で見るのか。。といった、田舎民的な発想を片手に携え電車からおりそのまま劇場へと向かった。
劇場に着くと高尚な雰囲気が多少なりとも漂っていた。美人な人も多い。ひとまずトイレに行っておこうと思い、トイレへ入る。すると、そこにはジャズが流れ、赤く塗装された便器が足を揃え並んでいた。迷わず、カメラのシャッターを押していた僕はおそらく変態なんだろう。そんな訝しい自分に酔いながらも席に着き、いざ舞台観劇へと向かう。
この作品は勘三郎さんのオマージュであることは知っていたが、正直勘三郎さんに対する知識を特別持ち合わせているわけではなかった。ずっとサッカーだけをやり続け、大学に入り一年が経ったばかりの僕にとっての舞台という世界。全くの舞台素人が見て感じた、前提なしの足跡姫の考察だと認識して読んでもらえれば幸い。
まず見終わった率直な感想を。
舞台は観客と演者の熾烈なレスリングだということ。
どちらも欠けてはならないお互いの関係性の中で、演者は伝えたいものを発信し、観客はそれをくまなく受け取ろうとする。もちろんこの関係性は一方的なわけではない。観客がその空間にいる限り、観客それ自体が舞台というひとつの空間に対して、常に主体的に働きかけているのだ。受け取ることに対して主体的かつ、自発的になることが舞台では可能なのだ。これは映画、テレビ、本、ラジオなどあらゆるメディアのどれをとってもありえない状態であり、舞台という生物(ナマモノ)だけが作り出すことのできる世界である。すなわち演者は機微な動き、すべての細かな動きに意識を向ける。その生きている刹那に観客と演者、強いては、照明、その他のスタッフがすべてのエネルギーを注ぐ。
そのことに終始感動していた。一種の奇跡が目の前で繰り広げられていたのだから。
キャストについて一言述べるとすれば、やはり宮沢りえが印象深かった。とても43歳には見えない美しさ。いや43歳だからこそ醸し出すことのできる美しさなのかもしれない。いずれにせよ彼女の表情、佇まい、間合いのすべてに突き刺さるものがあった。セリフがあるときはもちろん彼女に目を向けてしまうのだが、セリフがない、ノンバーバルの宮沢りえにも強いエネルギーを感じた。彼女が舞台上に現れるとずっと目で追ってしまいそうになる。どこか信じられないような、存在性の説得力を感じずにはいられなかったのである。
話を戻そう。
あくまで個人的意見だが、この足跡姫は死ということを一つのテーマにしていたように思う。
それは単なる死ではなく。極めて多義的な死。中村勘三郎の死から想像という種を広げ、創造されたお話。劇中では何度もニセモノの死が繰り広げられた。
舞台だから死なない。ニセモノの剣だから死なない。
死という終わりが舞台という社会で何を意味するのか追求する一つのドラマ。
母音しかしゃべれなくなった母親(ここでは勘三郎と被さる)のいう「イイアイ」という横文字が、「死にたい」から「生きたい」、(舞台に)「行きたい」に変換されたあの瞬間、地球の裏側はその舞台という世界に変わった。舞台現場と物語が重なる瞬間でもあった。妻夫木くん演じる猿若が言った「ひたむきささえあれば生き続ける」というメッセージ。
死んでも次の日には生きかえり舞台に立ち再び死ぬ。生々流転。何百年も続いているこの舞台という刹那は「今、その瞬間を生きること」でもあり、同時に形を変えながらもその舞台という生き物を後世へ繋ぐ長いたすきのようなものでもある。
それがわかった時、観劇していた僕の目からは涙がこぼれ落ちていた。
演じ終わったキャストが清々しくも、引き締まった表情で続々と出てくる。何かやりきった顔だ。
拍手を惜しまない観客とお辞儀する演者たち。ここに来るまで、最後のカーテンコールなど形式上の文化だと思っていた。
全く違った。そんなに安いものじゃない。舞台を作り上げた演者、照明、映像、セット、その空間と時間に対して最大の敬意を表すには絶対に拍手という行為が必要だった。
最後に作・演出を手掛けた野田秀樹が一人現れ、丁重にお辞儀をした。
ああ、舞台とはなんて素敵なんだろう。
暖かくも切ない儚さを胸にきちんと携え、僕は自宅へと向かった。