My Life diary

本、映画、舞台、音楽、恋愛、社会について思ったことをずらずらと。

就活終了間近に「モチベーションの源泉」を発見した話。

自分のモチベーションはどこからきているのか。

それがわからなかった。わかったような気になっていたが、それでもずっとモヤモヤしていたのが今日、晴れた。

就活を通じて、自分はてっきり家庭環境の負から、母親に苦労させない暮らしを提供させることが人生の目的だと感じていた。

しかし、どこかで違和感を同時に抱いていた。その結果、就職先は年収がそこまで高くなくて、自分がやりたいことができそうな事業会社を選択することになった。

 

しかし、今日母親と話していて自分のモチベーションの源泉がどこにあるのかわかったため、このブログに忘れないように書き記しておこうと思う。

 

それは、「自己表現欲求」が異常に高いということだった。(主に体を使った表現)

 

思い返せば思い返すほど、幼少期の自分はそうであり、就活という社会の枠組みになる上で、自己表現欲求は邪魔者でしかないと思っていたため勝手に切り離していた。

 

それは仕方ないことだったのかもしれない。

企業ではその組織の中で与えられた数字目標を達成することが目的であり、自分が会社という組織を通じて自らを表現することはお門違いだからだ。

 

そんなことはわかっていた。だから、自分の根っこの部分を無視し、就活で偽物を演じるという表現を行い、それを楽しんでいた。

 

私は約1年ほど就活をしていた。サマーインターンシップから、本選考までちょうど1年間、面接を繰り返し続けた。しかし、それが全くもって苦ではなかった。むしろ、楽しかったのだ。周囲はできるだけ就活を短く終わらせることに必死だった。

内定をもらったらそれで就活をやめる。そんな人ばかりだった。

 

しかし、自分は違った。内定をもらっても面接を繰り返した。そして、第1志望から落選の連絡をもらった時も、本当にずっと行きたかった会社だったからショックは大きかったものの、1日寝たら復活し、再び面接を楽しむ日々へと戻って言った。

 

これは、「面接で内定を取り、就労の機会を得るために就活をする」という目的ではなく、「面接を通して、自分を表現し、そこで企業の人事に注目を浴びることを通じて自己表現欲求を満たしていた」のだと言える。だから、今もいく会社が決まっているにも関わらず就活を辞めたいと思わない自分がいる。

 

明らかに異常である。思い返せば、幼少期、ピアノの発表会であえてピアノを弾かないふりをし続けて、自分への注目が集まることを楽しんでいた。サッカーでも親御さんが応援しにきて、その中で自分がプレイすることでチームを勝たせることに快感を覚えていた。劇の主役をやった時も自分が主人公を演じることを通じて、自己表現欲求を満たしていた。高校では、学年トップの成績を収めることで自分が特別視されることに喜びを感じていた。二子玉川で誰も観客のいないライブを全力でダンスすることを通じて盛り上げ、満員にさせることもあった。そこにやりがい、喜びを見出していた。一方で、ライブに行くと、猛烈な悔しさを感じる。自分があの舞台に立ちたいと。なぜ自分は応援する側でペンライトを降らなければいけないのか。そこに苛立ちを感じる。

 

 

だからこそ、今後、体を使った表現を取り入れていくべきである。身体に関心があったのは大学1年の複合文化の講義を受けた時からずっとそうだ。

 

身体という切り口で今後自らの時間を使い、表現に落とし込むことが自分の人生を豊かに、幸せにしていくものなのかもしれない。

 

その姿を母親に少しでも見てもらえれば自分にとって最高なのではないか。