My Life diary

本、映画、舞台、音楽、恋愛、社会について思ったことをずらずらと。

生まれて初めて舞台を見に行ったお話 それは観客と演者のレスリングだった _NODA MAP 「足跡姫」

僕は生まれて初めて舞台を見に行った。一万円というお金を払って。野田秀樹監修の「足跡姫」だ。主演は宮沢りえが務める。彼女は僕が舞台を見に行く前日、日本アカデミー賞で最優秀賞主演女優賞を獲得していた。そこに彼女の姿はなかったが。確か日テレだったと思う。それを僕は生放送で見ていた。司会が「先ほど宮沢りえさんは明日の舞台のために会場を後にしました。」と言った。

僕は嬉しかった。

授賞式よりも舞台を優先するという姿から彼女の演じることへの本気度がうかがえたこと。明日日本トップの賞を獲得した女優の演技を生で見ることができるということ。最優秀主演女優賞を獲得したばかりの宮沢りえのエネルギーを誰よりも早く感じることができること。

とにかく嬉しかったんだ。

 

 

 

次の日、僕は劇場のある池袋駅に電車で向かっていた。

電車内で流れる広告を見るとその日舞台に出演する妻夫木聡が写っている。

ああ、これから自分はこの人を生で見るのか。。といった、田舎民的な発想を片手に携え電車からおりそのまま劇場へと向かった。

 

劇場に着くと高尚な雰囲気が多少なりとも漂っていた。美人な人も多い。ひとまずトイレに行っておこうと思い、トイレへ入る。すると、そこにはジャズが流れ、赤く塗装された便器が足を揃え並んでいた。迷わず、カメラのシャッターを押していた僕はおそらく変態なんだろう。そんな訝しい自分に酔いながらも席に着き、いざ舞台観劇へと向かう。

 

この作品は勘三郎さんのオマージュであることは知っていたが、正直勘三郎さんに対する知識を特別持ち合わせているわけではなかった。ずっとサッカーだけをやり続け、大学に入り一年が経ったばかりの僕にとっての舞台という世界。全くの舞台素人が見て感じた、前提なしの足跡姫の考察だと認識して読んでもらえれば幸い。

 

まず見終わった率直な感想を。

舞台は観客と演者の熾烈なレスリングだということ。

どちらも欠けてはならないお互いの関係性の中で、演者は伝えたいものを発信し、観客はそれをくまなく受け取ろうとする。もちろんこの関係性は一方的なわけではない。観客がその空間にいる限り、観客それ自体が舞台というひとつの空間に対して、常に主体的に働きかけているのだ。受け取ることに対して主体的かつ、自発的になることが舞台では可能なのだ。これは映画、テレビ、本、ラジオなどあらゆるメディアのどれをとってもありえない状態であり、舞台という生物(ナマモノ)だけが作り出すことのできる世界である。すなわち演者は機微な動き、すべての細かな動きに意識を向ける。その生きている刹那に観客と演者、強いては、照明、その他のスタッフがすべてのエネルギーを注ぐ。

 

そのことに終始感動していた。一種の奇跡が目の前で繰り広げられていたのだから。

 

キャストについて一言述べるとすれば、やはり宮沢りえが印象深かった。とても43歳には見えない美しさ。いや43歳だからこそ醸し出すことのできる美しさなのかもしれない。いずれにせよ彼女の表情、佇まい、間合いのすべてに突き刺さるものがあった。セリフがあるときはもちろん彼女に目を向けてしまうのだが、セリフがない、ノンバーバルの宮沢りえにも強いエネルギーを感じた。彼女が舞台上に現れるとずっと目で追ってしまいそうになる。どこか信じられないような、存在性の説得力を感じずにはいられなかったのである。

 

話を戻そう。

あくまで個人的意見だが、この足跡姫は死ということを一つのテーマにしていたように思う。

それは単なる死ではなく。極めて多義的な死。中村勘三郎の死から想像という種を広げ、創造されたお話。劇中では何度もニセモノの死が繰り広げられた。

舞台だから死なない。ニセモノの剣だから死なない。

死という終わりが舞台という社会で何を意味するのか追求する一つのドラマ。

母音しかしゃべれなくなった母親(ここでは勘三郎と被さる)のいう「イイアイ」という横文字が、「死にたい」から「生きたい」、(舞台に)「行きたい」に変換されたあの瞬間、地球の裏側はその舞台という世界に変わった。舞台現場と物語が重なる瞬間でもあった。妻夫木くん演じる猿若が言った「ひたむきささえあれば生き続ける」というメッセージ。

死んでも次の日には生きかえり舞台に立ち再び死ぬ。生々流転。何百年も続いているこの舞台という刹那は「今、その瞬間を生きること」でもあり、同時に形を変えながらもその舞台という生き物を後世へ繋ぐ長いたすきのようなものでもある。

 

それがわかった時、観劇していた僕の目からは涙がこぼれ落ちていた。

演じ終わったキャストが清々しくも、引き締まった表情で続々と出てくる。何かやりきった顔だ。

拍手を惜しまない観客とお辞儀する演者たち。ここに来るまで、最後のカーテンコールなど形式上の文化だと思っていた。

 

全く違った。そんなに安いものじゃない。舞台を作り上げた演者、照明、映像、セット、その空間と時間に対して最大の敬意を表すには絶対に拍手という行為が必要だった。

 

最後に作・演出を手掛けた野田秀樹が一人現れ、丁重にお辞儀をした。

 

ああ、舞台とはなんて素敵なんだろう。

 

暖かくも切ない儚さを胸にきちんと携え、僕は自宅へと向かった。